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衛に折角、親鄭政権を樹立させたのに、その政権が年内(隠公四年)に瓦解してしまったのですから、鄭としては憤懣やる方ありません。 今後は単独で衛に攻撃を仕掛けます。 衛も南燕と手を結び野戦に備えます。 ただ、今回は鄭も総力を挙げて挑みました。 本隊は鄭の公子が率い、別働隊は衛と南燕の連合軍を待ち構えます。 その別働隊の顔触れが錚々たる者で、「祭(=制、北林)」と「原」の領主に、鄭の援軍として泄駕が参加します。 祭は衛から黄河を100キロほど遡ったところにある都市で、原は周都からみて黄河の対岸にある城砦です。 衛・南燕連合軍はおそらく祭を標的にしていたのでしょうが、本隊と別働隊の挟み撃ちにあって背走します。 大局的には劣勢の鄭ですが、なかなか土俵を割りません。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 #
by 1-shikou
| 2008-05-20 12:23
実は、隠公五年には「伝(=口伝)」のみですが、晋関係の記事が二件載っています。 前者において周は、晋の分家(曲沃)の肩を持って派兵し、後者では本家(翼、但し当時は隋に亡命)を再興させるため、右腕とも言うべき虢公(直参の公爵、最も信頼できる存在)を派遣している。 まず、仮に晋を諸侯と認めるとしても、周王朝は本家しか爵位を与えませんから、前者は論外。 後者も甚だ疑わしいです。 僻地とも言える随に逃げた晋本家と連絡を取り合い、分家の本拠地曲沃を攻める義理はないし、そんな戦に虢公を派遣するのは勿体ない話です。 要は、2件とも架空の話、後世の加筆です。 ただこの時代、分家の優勢が明白になりつつあるのは事実です。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 #
by 1-shikou
| 2008-05-19 10:37
お家騒動で敗れた本家(翼)は逃亡しますが、亡命先は何と随です。 この場合の隋は黄河支流の汾水をかなり遡った都市です。 晋は本家、分家(曲沃)ともに、黄河の北側(今の山西省)に位置する、当時は「領土国家の卵」でして、周から言えば対岸の山奥にいる野蛮人同志の内輪喧嘩にしか見えなかったと思います。 総合すると、この伝は確実に後世の加筆ですが、何故ここに挿入したかと言うと、 「本家と分家に分かれたお家騒動は日常茶飯事であり、晋はその一例に過ぎず、魯も例外ではない」と言いたかったのです、筆者は。 この場合、筆者は勿論孔子です。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 #
by 1-shikou
| 2008-05-18 13:47
晋が初めて登場する、この「伝(=口伝)」の一節は、辻褄の合わないことが多すぎます。 爵位は前回取り上げましたので、今回は当時の政治的常識に触れたいと思います。 「伝」によると、晋のお家騒動の際、分家(曲沃)に鄭と邢が加担したとありますが、これは有り得ません。 なんとなれば、鄭斉同盟が擁立した衛の州吁政権が倒れた後、衛が迎えた新しい君主は、他ならぬ邢に亡命していたからです。 「政敵の亡命先は敵国」、この原則を理解していれば、事実でないことは一目瞭然です。 次に、周が分家方に援軍を派遣しているのもおかしいです。 周王朝は一貫して、本家筋しか承認しません。 そもそも、僻地で内輪揉めしている蛮族の晋を、はたしてこの時期に周が諸侯と認めて爵位を与えているかも疑問の余地がありますが、仮にそうであっても、認めるのは本家です。 まだまだ疑問はあります。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 #
by 1-shikou
| 2008-05-16 14:15
隠公五年になって初めて登場するのが、晋です。 ただ、「経」(=本文)はなく、伝(=口伝)でのみの初出です。 内容は、ご他聞に漏れず「本家(=翼)」と「分家(=曲沃)」の争いなのですが、ここでは分家が優勢です。 ただ、この部分の「伝」は眉唾ではないかと思われる箇所が多々あります。 まず爵位です。 ここでは、本家に侯爵を、分家に伯爵を与えたように記載されていますが、今までの検証からも明らかな様に、伯爵以上は周王朝から直接授かる爵位です。 しかも、「中原国家」にのみ与えられる称号で、晋なんて「野蛮国」が簡単に得られる爵位ではありませんし、ましてや分家は「子爵」または「男爵」です。 つまりこの一節は、後世の挿入なのです。 まだまだ不可解な点があります。それは次回に。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 #
by 1-shikou
| 2008-05-15 23:10
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