曲阜はそれ以前から存在した都市国家かどうかは別として、初代魯公の武公(字は伯禽、名は敖)赴任以降、この都市が大幅に改造されたことは想像に難くありません。 如何なる攻撃にも耐えられる都市国家を目指して補強が進んだと思われます。 ところで、武公には二人の息子がいました。 一人は、字は伯御、名は括、後に懿公と贈名される人物で、宋の公女を母(正室)に持つ太子です。 もう一人は、その死後に恵公(=考公、名は称)と呼ばれる人物で、武公が斉から貰った公女(但し側室)を母に持ちます。 では、武公はそれぞれにどの地を与えたのでしょうか。 まず、伯御には曲阜を与えます。順当でしょう。 すると、称にはどこが与えられたか。 ここで思い出して頂きたいのですが、「分家」あるいは「暖簾分け」する際、新たな都市国家は、本家からさほど遠くない場所に築かれました。 本家の勢力の及ばない場所を、長期にわたって放浪したり、或いは築城中であったりすれば、大変危険だからです。 では、封土は何処かと言いますと、曲阜に近い場所と言えば、そうです、邾(鄒、郰とも)です。 ですから、曲阜と邾は文字通り「兄弟国家」でした。 初めは、曲阜が邾を保護する、逆に言えば邾は曲阜の衛星都市であったことになります。 しかし、「隣接する都市国家は仲違いする」は鉄則です。 殊に曲阜と邾の場合、親宋派と親斉派に分かれたことになります。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。
by 1-shikou
| 2008-02-19 21:43
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