前回にご説明した通り、成(郕=汶陽)はこの辺りでも有数の穀倉地帯ですから、勢い各国の争奪の地となります。 事実、争奪戦は時代を下る毎に激しさを増しますが、隠公五年の一件はその先蹤とも言えます。 さて、記録上では桓公の生母、本当は隠公の実母の葬儀がこの年に催されますが、その時の隠公と衆父の会話が面白いです。 要は、隠公つまり魯公は、周王朝からみて一段格下の諸侯だから、八佾舞は僭越だから六佾舞で我慢しなさいと言う衆父の進言を、隠公が受けたことになっていますが、この部分は経(=本文)、伝(=口伝)ともに後世の加筆で、贋造です。 まず、実母であろうが継母であろうが、その葬儀の格式を落とすことは、考にも礼にも反します。 つまり、隠公を貶めているのです。 ところで、隠公の時代に八佾舞を止めたと言うことは、それまでは冠婚葬祭に八佾舞が用いられていたと言うことになります。 このことは、「魯は八佾舞を挙行出来る舞楽隊を常備していた」と言うことです。 つまり、周王朝の認可が無ければ、八佾舞を持つ魯公は「無礼者」ではないのでしょうか、中国史家の皆様。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。
by 1-shikou
| 2008-05-27 14:03
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