鄭の跡目相続は、政治路線の対立でもありました。 すなわち、勝者である兄の方は、反周派、周王の権威を重視せず、自国の勢力拡大に注力する、対外強硬路線(武断主義)を採りました。 この点を踏まえると、後の荘公の母は申の出身、従って姜姓で、弟の母の実家は宋(子姓)であったかも知れません。 とすると、弟の方は当然のことながら、親周派、協調外交路線と言うことになります。 隠公二年はこうして、鄭と衛の間で戦火の火蓋が切って落とされながら、終わりを迎えました。 明けて隠公三年、まず大きな出来事が待っていました。 周王(春秋では「天王」と記載)が亡くなりました(贈名は平王)。 続いて宋の穆公も死亡しています。 一方、鄭側、つまり反宋側は、軍事力を補充するため、ある勢力に近づきます。 ここに、斉が登場します。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。
by 1-shikou
| 2008-03-20 17:28
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