通史に従って、初代魯公である武公の在位期間を12年、次の伯御こと懿公の在位を約20年とすると、伯御を殺害して即位した恵公(=考公)の在位期間は最長で16年と言う計算になります。 つまり、紀元前770年から隠公元年までの期間が48年。同770年を殷周革命の時期とすると、魯国の建設はそれより遡ることは有り得ませんが、それを大きく下ることも想定できないのは、既に説明した通りです。とすると、 48年 - 12年 - 20年 = 16年 となります。 では、恵公の死に様はどうだったのでしょうか。 これも史実が伝えています。 魯の親宋派(伯御こと懿公系)、宋、周の連合軍に攻め殺されたのです。 通史では伯御が周に殺されたことになっていますが、これは嘘。 当時の「中原」情勢をみても分かりますように、宋は周の強力な与国です。周は一貫して魯の正嫡しか認めていません。 当時の最大のご法度は「放伐」。当然です。周は殷を「放伐」しています。放伐した者が求める物、それは秩序の安定です。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。
by 1-shikou
| 2008-02-21 14:59
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