春秋で言うところの「隠公元年(紀元前721年)頃、晋では実権が「本家」から「分家」に移りつつあった。 「本家」は翼に本拠を置き、周から侯爵の称号を受けている。 「分家」は曲沃に拠点を構え、爵位は伯爵。 「分家」は実力で実権を奪還したのは良いが、それを周がなかなか認めてくれなかったのである。 おそらく、周に主権者として認めてもらううえで、次の様な条件を呑んだと思われる。 1)晋の主権者であることを認める代わりに、周より目下の立場であることを内外に公表する。 →系譜を、周の武王の息子、成王の弟から発していることにする(この措置には、蛮族とは血縁関係を結びたくないと言う、周王室の意向も働いていたと考えられる) 2)「本家」を同じ侯爵を与えるとともに、周に危機が訪れた時、必ず馳せ参じる(後に力関係が変化した際、伯爵を自称し、事後承諾を得たと推測されるが、それでも「尊王」の旗は掲げ続けた)。→周の『代理人」としての立場に甘んじる。 すなわち、覇者として「正当性」に欠けていたのである。 この点、晋が領土内の求心力に欠けていた、もう1つの理由である。 なお、曲沃と翼は、異なる河川に属していた点が面白い。しかも、いずれも上流域であるから、川を下って支配地を広げるうちに、利害が衝突したのであろう。 参考までに、斉の姓が「姫」ではないのは、斉が周の視野に入った時点で、既に魯をはじめとする「姫姓」の諸侯と婚姻関係にあったためと思われる。 (続く)
by 1-shikou
| 2007-12-20 21:13
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