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予定通りの稼動は来週(2月16日~)からでご勘弁下さい。 満身創痍の執筆者 #
by 1-shikou
| 2009-02-11 00:38
御既承の通り、仕事と家庭、それに肉親の原状回復支援の3正面作戦を展開している現状を鑑み、また一部読者から休載中のブログ最下位の声も頂きました点も踏まえ、各ブログの発行曜日を下記の如くと致し度、読者各位に於かれましては格段のご高配を賜れば幸甚でございます。 なお、翌日未明にずれ込む場合もありますし、必要とあれば随時更新致しますので、併せてご了解の程、お願い申し上げます。 中身の薄いものを毎日更新するよりも、内容の濃密さを追求する方を選択した結果とご理解頂ければ幸いです。 「おん爺U」の抱腹絶倒 株式レーティング」:毎週月曜日、水曜日、金曜日の週三回 「現代中国に関する考察」:毎週火曜日、木曜日、土曜日の週三回 「現代の超克」:毎月第一及び第三日曜日 真説「春秋」「論語」及び「孔子」:毎月第二及び第四日曜日 上記適用開始時期は、2月です。 以上、宜しくご理解の程、お願いします。 各誌執筆者 #
by 1-shikou
| 2009-01-26 01:32
斉としては鄭及び邾と同盟を結び、衛の政権転覆に一役買ってみたものの、結局は企ても失敗に終わり、衛の君主に斉公の縁者を擁立することは出来ませんでした。 この結果、ここ数年で、魯と衛の両国において、斉の主君の娘或いは姉妹の血を引く人物は、政権から放逐されて殺害されることになりました。 斉とすれば、大きな政治的損失です。 そもそも河川で繋がっているとは言え、鄭は隣国で、同盟を結ぶには何かと不都合な点が多いですし、周を頂上に戴き、宋を事実上の盟主とする優勢な連合軍に、これ以上刃向かっても利が得られないと判断してのでしょう。 そこで魯と交渉を持ち、首脳会談に漕ぎつけました。 以上の経緯から、この会談は上座が魯、下座が斉です。 講和の内容はおおよそ次の様なものでしょう。 「斉は魯及びその連合国に対して敵対行為をしない」 「鄭斉同盟は破棄する」 「邾(=魯の分家)に対する支援行為を行わない」 殷が滅ぶ以前から在ったとは言え、まだ「領土国家の卵」から孵化していない斉としては、これが精一杯だと思います。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 #
by 1-shikou
| 2008-07-01 07:39
この年、隠公は斉の君主との首脳会談に臨みます。 場所は艾。ほぼ中間地点にあるこの地はその後、両国の会談場所となります。 さて、この部分で奇妙なのは、斉の君主を「斉侯」と記している点です。 この時期に周王朝が斉に対し爵位を与えていたかと言うと、答えは否です。 そもそも、反周同盟に加わっているのですから、しかも、「中原」の都市国家ではなく田舎の野蛮国です。 爵位を得るのはまだまだ先、従ってこの一文は後に書き直された可能性が濃厚です。 そこで問題になるのは、魯斉会談は現実の話なのか、架空の作り話かと言うことですが、史実だと思います。 それは、斉の側に魯公と面談する必要があったからです。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 #
by 1-shikou
| 2008-06-26 20:39
隠公四年は衛を巡っての、宋を主力とする連合軍と、鄭が提唱する同盟軍の激しいつばぜり合いがあり、同五年は、双方の主力、すなわち宋と鄭が直接相手を攻撃する事態となりました。 この状況で隠公六年を迎えますが、魯を取り巻く情勢がこれだけ激変しているにもかかわらず、この年は記事が少ないです。 少なからず処分されたのではないかと推測しています。 ところで、この年の春、「鄭人」が来訪していますが、この様に「国名+人」と記されている場合は、当代の君主やその代理(主に兄弟か息子)以外の有力者であることを示しています。 ですから、この一言で「鄭の君主の代理が務まる高貴な人物が来たんだ」と理解すべきなのです。 ただこの場合、「鄭人」が向かったのは邾(=分家側)で、その要人と面談、打ち合わせしたのです。 議題は勿論、宋の攻勢に対する対応策の協議です。 次が問題、再び斉の登場です。 (続く) 追記 真説「春秋」、真説「論語」、並びに真説「孔子」を、故宮崎市定先生に捧げます。 #
by 1-shikou
| 2008-06-19 00:06
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